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【阿部伸一郎 氏】
大井小学校(岐阜県恵那市)の同級生である阿部伸一郎氏の寄稿を掲載させていただきます。同氏は、建設会社を経営され、循環型社会への熱心な取り組みが全国から注目されています。また、若手リーダーとしてふるさと東濃の活性化のために活躍をされています。同氏のユニークな視点を、皆様にご紹介します。

骨抜き国家 衰退する日本の空
心理学 座右の銘
ISO(国際標準化機構) 白と赤
市町村合併 小善は大悪に似たり、
 大善は非情に似たり
JUMP AT YOUR OWN RISK .


「骨抜き国家」

 マレーシアのマハティール首相が、日本にあふれる茶髪の若者に苦言を呈するとともに、日本経済の衰退を指摘し、「マレーシアは日本をかつてはお手本として注目していた。だが現在の日本のようになっては、国家が衰退する。今は日本の間違った点を見て、同じような過ちを犯さないための反面教師として、日本を注目している」と発言している。日本は何故お手本から反面教師へと失墜してしまったのか。

  その諸悪の根源は戦後の学校教育にあるに違いないと、ある著名人の講演を聞いてから思うようになった。以下その講演内容を要約する。『アメリカでは情報公開が徹底されており、情報公開図書館というものがある。そこではある年月を経て公開された全ての資料が閲覧できる。その中に戦後の日本の処置に関するものもあり、次のように記してあるという。戦勝国は、日本を二度と戦争をしない国にしなければならないと考えた。そのためには日本人を骨抜きにすることが一番手っ取り早い。その手段として学校教育に三つの要素を取り入れ厳守させた。その三つとは、「宗教を持ち込まない」「道徳を教えない」「歴史を教えない」』であったと言う。 

 この教育方針が実施されて、今の小中学生で既に三世代目である。世代が変わるごとに愛国心も民族としての誇りも見事に薄れ、思惑通りの骨抜き国家になりつつある。
無論戦争など二度としてはいけない。しかし、骨抜き国家であっていいはずがない。マハティール発言を忠告と真摯に受けとめ、学校教育から骨抜き三要素を今すぐ取り除くべきであると痛感する。



「衰退する日本の空」

 日本の空が世界から取り残されている。ハブ空港ひとつない。そんな折、神戸に空港を建設するというが、理解に苦しむ。

 ハブとは、拠点を意味する。分かりやすくJRで説明しよう。仮に、名古屋に住む人が仙台へ行くとする。今は東海道新幹線で東京へ出て、東京駅で東北新幹線に乗り継ぐ。しかし、以前、東北新幹線は上野発着であったため、東京駅から山手線に乗り換え上野駅まで行く必要があった。これでは不便で利用客は逃げる。ということで東北新幹線も東京発着にした。東京駅をハブ化したと考えればよい。
しかし、神戸に飛行場を作るという発想は、これとは全く逆に分散を意味し、隣接する関空の利用価値をも損ねる。

  実はその関空も問題が多い。一兆五千億かけ滑走路は一本しかなく、その利息は年間七百億にのぼる。二本目を作る予定だが、新たに同額の一兆五千億かかる。また、着陸料はロンドンのヒースローの十倍、成田はさらに高く世界一である。
こうしたコスト面と需要に即応できない拡張性のなさを考えると、成田も関空も国際ハブ空港にはなりえない。韓国の仁川空港に負ける。では何処が最適地かと言えば、千歳だ。ちなみに新千歳空港は、関空の年間利息と大差ない八百億で出来ている。次世代の千人乗り超大型機に備えたスーパーハブに拡張するだけの敷地も十分だし、上海や仁川より千キロ以上欧米に近く経済性に勝る。

 国際ハブ空港間の幹線から外れることは、日本が全ての面で衰退する要因となる。真の国益を鑑みれば、今何が必要で何が不要かの判断は決して難しいものではない。



「心理学」

 ある日、書店で何気なく一冊の本を手にした。心理学の「交流分析」に関するものだった。
 交流分析とは、精神状況を親、大人、子供の三要素に分析し、自我状態を判断するものである。
 人間には「〜であるべきだ。〜でなければならい。」という思いがあるが、それは自分の経験からではなく、先祖代々からの習性の中で身についたことが多い。嫁と姑で味噌汁の作り方で喧嘩した。というような話は、それである。しかし、交流分析を用いれば、お互いの行き違いが修正できる。       
会社の会議にも役立つので、社員にも説明できるよう再勉強中である。

 そんな折、ある心理士に出会った。素人の私が交流分析に興味を持っているのに驚かれ、その後も興味深い情報を送ってくれる。先日は「認知的不協和理論」を教わった。    
例えば、何かを購入する際にどちらにすべきかと迷うことは、人間だれしもあることだ。その迷いと金額が大きくなればなるほど選択しなかったもう一方のものが気になる、という心理が働く。こういったことが、認知的不協和と呼ばれるものである。
 車のベンツ社はこの心理を巧みに利用している。通常カタログというのは、未購入の人を対象に作成するが、ベンツ社は既にベンツに乗っている人も対象にしている。そのカタログには、ベンツにして良かった。という人の話が多く出てくる。するとそれを読んで、私は正しい選択をしたと思うようになる。よって、次回からも別の車にしようと思わず、リピーターになる。という戦略である。

 経営を執り行う上で、心理学は色々なことを教えてくれる。


「座右の銘」

 過去読んだ本で最も感銘を受けたものは何かと問われれば、迷わずディール・カーネギーの「人を動かす」と「道は開ける」の二冊を挙げる。事実か否かは確認してないが、聖書に次いでのベストセラーはカーネギーのシリーズだと聞いた覚えがある。

 その中の一節に、ナポレオンとヘレンケラーを比較した話が出てくる。  
栄光、権力、巨万の富を独り占めし英雄ともてはやされたナポレオンは、セントヘレナで「世の人生の中で幸福な日は六日となかった」と言って死んで行ったと言う。
一方見えない、聞こえない、喋れないという三重苦に見舞われたヘレンケラーだが「幸せな人生を送れたことに感謝する」と言って息を引き取っている。
この二人のどちらが幸せか、と問えば誰しもナポレオンと答えるだろう。しかし、それは、本人がどう思うかの問題である。

  「恵まれている点に感謝することなく、欠けている点のみ不幸と考えたのか」あるいは、「三重苦は運命と受けとめ、恵まれていることに感謝したのか」。二人の差はそれしかない。つまり、人間の幸不幸とはその人の地位・名誉・財産・容姿ましてや、持ち物などによって決まるものではなく、何を幸せと考え何を不幸と考えるか。その心の置き場によってのみ決まる。

 カーネギーから、何事も「心次第」と学んだ。そして、昔から好きだったのが「塞翁が馬」の故事。   
 座右の銘を問われると、この二つを足して「浮世は心次第・人間万事塞翁が馬」と答えている。
 日々是好日。毎日を明るく前向きに生きて行きたいと思う。



「ISO(国際標準化機構)」

 ISOが勘違いされている。「専任が必要」「書類が増える」「コストアップになる」等々。挙げたら切りがない。

  しかし、私に言わせれば全部迷信である。昔は「水を飲むとばてる」「日焼けは健康に良い」「野球選手は肩を冷やすな」などと言われていたが、全部迷信であったことは今や常識である。これらを信じて実行していれば健康に百害あって一利なしであったと同様の悲劇がISOでも起きている。

  折角ISOを取得したのに、複雑さゆえコストアップになってしまった。と言った話を聞くが、これでは本末転倒である。何故、世界中に店舗を持つマクドナルドは、パート職員が大半であるにもかかわらず、全店同じ味で同じサービスを提供できるのか。その秘訣こそがISOの手法と通ずる。

  ISOを一言で表現すれば、仕組み作りである。品質(九〇〇一)環境(一四〇〇一)を良くする仕組みをマニュアル化しなさい。と言っているに過ぎない。
そこで大切なことは、折角の仕組み作りを品質や環境に留めず経営に応用することである。経営とはそもそも仕組みの集合体と言える。そのノウハウに乏しい我々中小企業経営者にとってISOは、まさに渡りに船である。

  ISOには、これが正解と言った答えはない。百社あれば百様のISOがあって然るべきである。しかし、ひとつだけ言えるのは、ISOがコストアップの要因となっては意味がない。企業変革、コストダウンのツールとしてのISOにすべきである。

  より詳しくは、私の著書「ISOで会社が変わる!会社を変える!」に記した。ささやかなヒントになれば幸いである。



「白と赤」

 日本では対抗戦といえば決まって白組と赤組に分かれる。歌合戦しかり。運動会しかりである。

  先日ニュージーランドから来ている英語教師と子供の運動会を一緒に観戦した。ニュージーランドでは、こうした催しのとき何によってチーム分けをするのかを聞いてみた。彼女曰く、AとかBでなくやはり色だそうだ。但し、学校によって使う色はマチマチじゃないかな?との返答だった。
想像した通りだった。白と赤は万国共通ではない。日本独特のものだ。となると、そのルーツは、日の丸のそれと同じではないかと推測した。
日の丸のルーツは源平の時代までさかのぼる。当時、白旗と言えば源氏を示し赤旗と言えば平家を示すシンボルだった。そして、ついに壇ノ浦で源平合戦となる。その時、勝利した源氏が持参したのが、「白地に赤の日の丸」。一方、平家は逆の「赤地に白の日の丸」であった。必然的に、勝利した側の日の丸が天下統一の旗印となって行く。源氏の後に出てきた武将も、我こそは源氏の末裔と日の丸を揚げた。信長も秀吉も家康も、それぞれの家紋を使用しながら、統一というアイデンティティーとしては日の丸を用いた。
以上が日の丸の成り立ちである。「白と赤」は、私の邪推かもしれないがきっと同じだろう。

 話は、運動会に戻る。私が、こうした話をニュージーランド人の英語教師に話すと、興味を持って聞いてくれた。但し、恥ずかしい話だが、殆どの日本人はこうしたことを知らない。学校では習わない。と伝えた。
彼女は、首をすくめ目を丸くして「WHY?」と、私の顔を見上げた。


「市町村合併」

 日本全国には、三千二百十八の市町村が存在する。そのうち人口一万人未満の自治体は千五百三十七とおよそ五割に達する。三万人未満を数えると二千五百二と八割にもなる。こうした数字からも、自治体が如何に細切れ状態にあるかがお分かりいただけると思う。

 現在、六百兆円を越す深刻な財政赤地が象徴するように、まさしく我が国は病んでいる。その最大の要因は行き過ぎた中央集権にある。と私は思う。しかし、残念ながら必然的にそうなる要素が存在しているのも事実である。それは、すべての税収の七割が一旦国へ納められ、それを地方へ戻すという税制である。そして、小さすぎる県と市町村が多く存在することが、それを容認している。こうした国のあり方自体を道州制への切り替え等々根本からドラスティックに変える必要性がある。そのための第一ステップが今回の市町村合併である。つまりは、我が県が推進している首都機能移転同様に国家のあり方に繋がる問題である。ここに大局があることを忘れるべきではない。

 明治と昭和の大合併。前者は小学校を後者は中学校をそれぞれの自治体で独自運営できる規模にという大義名分で進められた。その頃は、まだまだ上意下達が許される時代だった。しかし、今は時代が違う。地域の民意が優先する。すると、どうしてもまちづくり的問題として捉えがちになる。その結果、木を見て森を見ず。という状況に陥りやすい。

 今各地でまとまりかけた話が壊れかけている。
 小異を残してでも大同についてもらいたい。と願うのは私だけではあるまい。


「小善は大悪に似たり、大善は非情に似たり」

ずい分と昔の話だが、日本赤軍による「よど号事件」と「ダッカ事件」を思い出してほしい。当時の日本政府は、「生命は地球より重い」「超法規的措置」などと言って、赤軍派と取引をした。しかし、後に大変なものを残してしまった。
人質の生還と引き換えに犯人達は、莫大な身代金を手にし北朝鮮とバングラデシュに渡った。その大金は、大韓航空機爆破事件を始めとする幾多のテロや拉致事件の資金と化けたであろう。現に、よど号犯人は拉致の実行犯の疑いが濃厚である。つまりテロリストとの取引は解決策ではなく問題の先送りに過ぎない。正に「小善は大悪に似たり」の大失態だった。
次に昨年九月十一日。あの日、四機の飛行機がハイジャックされた。そのうち二機は世界貿易センタービルに、一機はペンタゴンに突撃した。
実は、その時点で最後の一機はまだ上空にいた。その飛行機は、乗客の抵抗を受け山林に墜落したが、アメリカ政府は撃墜せよとの命令を出していた。より大きな悲劇を避けるには、やむを得なかった。「大善は非情に似たり」の命令だった。
カルロス・ゴーン氏は日産の社長に就任するやいなや五工場を閉鎖し大規模なリストラを行なった。結果、業績は劇的に回復し今ではまた雇用を増大させている。だが、彼以前の社長は問題を先送りした。もし、ゴーン氏に変わっていなかったら、いずれ日産も下請け業者も全部倒産、全員失業と言う最悪の事態になっていただろう。
小善は一見正義で美しい。行なうも易しだ。一方、大善は不人気で孤独。自分も辛い。行なうは難しである。


「JUMP AT YOUR OWN RISK」

 例えば火山の噴火口がある観光地。誰しも噴火口を見たいが危険が伴う。そのような場合アメリカでは、ただ「PASS AT YOUR OWN RISK」という立て札が一つ二つあるだけだそうだ。「自分の責任において行ってもよい」の意味だ。実際あのグランド・キャニオンでは、毎年何人かは転落して命を落とすらしい。でも、自分で考え行動した結果だから仕方が無い。で終わる。
 しかし、日本ではこうはゆかない。先ず管理者責任が厳しく問われる。   
どうしてフェンスを設置しなかったのか。それでもフェンスを乗り越える者がいれば、高さは十分だったのか。有刺鉄線はあったのか。あるいは、何故見張りを付けなかったのか。というように限りなくエスカレートしてゆく。
 先のワールドカップ。大阪道頓堀では、日本が勝った日には数千人が橋から川へ飛び込んだ。多勢に無勢で警察はなすすべもなかったが、一応飛び込むのを防ごうとしていた。何も起こらなかったから騒ぎにならなかったが、もし誰かが死亡でもしていたら、警察の責任が問われネットを張るなどの対策が検討されたのではないだろうか。
 私は、そんな日本こそ異常だと思う。自分で考え自分で行動し自分で責任を取る。極めて当然のことではないだろうか。
 中国瀋陽の日本領事館で起きた北朝鮮人の駆け込み事件に対する領事館員のお粗末な対応も、甘やかされた日本の社会構造がその背景にあるような気がする。
道頓堀に必要なのは一枚のたて看板のみ。「JUMP AT YOUR OWN RISK」ではなかろうか。




 

 

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